江のブログ

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国民・メディアの政府・政治批判:「対案示さずフラストレーションをぶつけるだけの意見」に感じる違和感

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 日本経済の落ち込み,少子化,コロナ,天災,とネガティブで暗いニュースが多いためか,連日連夜,テレビ,新聞,雑誌での政府批判が止まりません。メディアが政府批判をネタにするということは,国民自身が政府批判を求めているからに他なりません。

 しかし、これは少し考えると変です。不景気や少子化までならまだわかりますが,疫病とか天災とかは本来,誰のせいでもないです。

 もちろん表面的には政府の対応・対策のマズさについて批判しているように見せています。しかし結局は「フラストレーションを政府にぶつけているだけじゃないの?」と思ってしまったので,記事にしてみました。

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コロナや震災対応への連日連夜の政府批判

 テレビ,新聞,雑誌などあらゆるメディアがこぞって政府批判をしています。

しまいにはこれは「政府の失態という名の人災だ!!」というようは人たちもでます。

しかし本当に,人災というほどの失態なのでしょうか。

当時ベターな策はとれたのか?

 コロナのような疫病や,震災は大きくの人の命を奪ったり,生活の基盤を揺るがしたりする。そのため,どこかに怒りをぶつけたい気持ちは理解はできます。

 

 しかし,これらはある意味「事故」のようなもので,いったん起きてしまえば,どんなに完璧な対応をとったとしても,被害であったり,状況の悪化は避けられない事案です。

 コロナであれば,国民全員が家から一歩も出ないような無茶なことをしない限り,必ず感染者は増えます。その結果,必ず死者は出ます。逆にコロナ対策をとれば,必ず休業要請などで不利益を被る人たちがでます。

 天災でも同じで,誰が悪いでもなく,どんな完璧な対策をとったとしても,必ず不利益を被る人たちがでます。当然ですが。。

 

 つまり,誰に責任がある訳でもなく,どっちに対策を取っても負の影響が避けられないような事象は,フラストレーションがたまっても大人であれば我慢しなくてはいけません。

 しかし,最近の国民の政府批判を見ていると,そんな自分で消化すべきフラストレーションを,一番手軽に批判をしやすい政府にぶつけているように見えるのです。

国民の政府批判のパターン

対案を示さない批判のパターン

 コロナであれば「国民生活を考えて自粛させるな」「病床を増やせ」,天災なら「政府の対応遅かった,悪かった」と国民は文句をいいます。

 それではコロナの例で,自粛しない代わりにどうすればよかったのでしょうか?

 病床はどこから生まれるのでしょうか?政府の対応が遅いなら理想のスピードはどれくらいでしょうか?代わりにどんな対応策があったのでしょうか?

 仮に,後から考えてベストな方策があったとして,問題が出てくる前に現実的にそれを実行できたでしょうか?

 

 文句ばかりで『対案』は無し結果論ばかりで当事者意識無しの批判ばかりなのです。

 対案』がなければ,現状はでき得るベストな対策をとっていたことになり,そもそも批判できないはずです。

 

 対案が出てくる場合も,当然のように検討された結果捨てられたあろう安易なアイデアだったり,メリット・デメリットを測りにかけて優先度を十分に吟味していなかったり,がほとんどです。

 また論法も,子供じみたものがほとんどです。政府の対応についてはそのメリットを無視して,現状の不満につながるデメリットのみを指摘します。一方,自身の意見に対しては,メリットだけ述べてデメリットは主張しない,という具合です。

 

他国の事例を持ち出すパターン

  「諸外国はちゃんとやっているだろう!」といって,政府批判する場合もよく見ます。しかし,本当にその国と日本を同じ条件で語って良いのでしょうか。

 他国がその施策により享受しているメリットばかり見て,デメリットには目を向けていないのではないでしょうか?

 そもそも,批判されている政府関係者は諸外国を一般国民以上にベンチマークしているのは当然です。それを知ったうえで「さぁ、それではなぜ差がついてしまったのか?」と考えるのが思考のスタートラインです。

 それを「他国ができているのに,日本ができなのはおかしい!」と鬼の首をとったように批判するなど,思慮深さに欠けた子供の論理にほかなりません。

 

  また批判されている政府関係者は,一般国民よりはるかに専門知識が豊富です。その上で今一度自分の(専門家である)政府(関係者)批判が安易なものになっていないか?一度立ち止まって考えてみたりはしないのでしょうか。と思ってしまうのです。

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無責任な批判の実害

 繰り返しますが,対案がなければ現状ベストな対策をとっていたことになり,そもそも批判できないはずです。

 対案を提示しないので批判するのであれば,当然状況は好転しないですし,むしろ寝食忘れて対応を頑張っている人達の足を引っ張るだけです。

  そして一番怖いのが,政府が,そういった馬鹿な人たち(あっついに言ってしまった!)の溜飲を下げるために,実際には国民全体にとって不利益になるが,世論に迎合した施策を選択せざるを得なくなってしまうことです。

 頻繁な首相の交代はその1例だと思います。

国民非難したときの集団リンチの怖さ

 こういった,自身が害があるのに政府批判がとまらない国民について書いてきました。こういったバカげたこと(あっ、また言ってしまった。。)は今後変わるでしょうか?

 結論から言うと,今後も変わることはないですし,ますます悪化すると思われます。

 なぜかというと,国民の「八つ当たり政府批判」を誰も咎めないからです。なぜ咎めないのかというと,国民批判というのは,批判する側にとって『損』しかないからです。

  仮に,政府に近い関係者が国民の批判を展開すると,袋だたき(大人のイジメ)にあって再起不能になります。

 また,メディアの出演者も,昔はキャスターの無味乾燥な情報伝達が中心でしたが,今は国民感情に寄り添う芸能人がコメンテーターが自分の意見を交えて情報を伝えますーいや,正確には自分の意見ではありません。

 仮に国民批判しようものなら人気急落で二度と出演できなくなるので,国民の最大公約数的な意見を自分の意見として語るのです。果たして,怖くて誰も国民を批判できなくなってしまうのです。

 この傾向がますます悪化していると書いたのは,先ほど書いたニュースのワイドショー化と,TwitterなどのSNSの影響でネットリンチがやりやすくなったからです。

おわりに

 今後も疫病や天災が起きるために,対応の如何にかかわらず,国民様のフラストレーション解消のために政府が叩かれまくる,という事象をこれからも何度も繰り返し目にすることになるでしょう。 

 これに対して,もはや止めるすべはないと思っています。ただ少なくとも自分だけは”ソレ”になりたくないなと思う,今日この頃です。