江のブログ

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体育会系・先輩後輩文化の理解できないこと~パワハラ・根性論・玉拾いなどの悪習がなくならない理由

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 こんばんは,えの吉です。今回は,体育会系で前時代的にいまだに残る,パワハラや,部活などでの根性論,その中でも野球部をはじめとした玉拾いがなくならない理由について考えてみました。

 

1.自分が嫌だった球拾いをなぜ後輩にやらせるのか?

 『自分が嫌だと感じることを他人(ひと)にするな』

 これは子供の頃に,人付き合いの最も基本的なルールとして教えられることだと思います。

 しかし体育会系で見られる,パワハラ,先輩への後輩の絶対服従,根性論の押し付け,また体育会系の非科学的トレーニングである「球拾い」や「うさぎ跳び」(の強制)は,『自分が嫌だと感じることを他人(ひと)にするな』とは真逆の考え方・行動に見えます。

 これらの悪習に共通するのは,自分が若い頃は『やらされる側』で嫌なことは分かっているはずなのに,自分が年を重ねることで『やらせる側』になってしまいます。自分の代で悪習を断つこともできるのに、止められない理由はなんでしょうか?

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2.体育会系の悪習がなくならない理由

①自尊心

 「人は自分が教わったように人に教える」と言われます。優しく教わった人は人にも優しく教えます。また,厳しく教わった人は,自分が指導する立場になったときにも人にも厳しく当たることが多いようです。

 では,何故このようになるのでしょうか?

 仮に理不尽であったとしても,そのやり方で教わった結果,今の自分がある。その教えを否定することは,自分自身を否定することになるから,ということなんだろうと思います。たとえ教わった方法が理不尽であったとしても,それを経験してきた自分の選択や自分自身の人生を否定したくないので,結局のところ自身の正当化のために,そのやり方を踏襲するのだと思います。

ポイント

パワハラ文化で育った人にとって,パラハラの否定=自己の否定となるため,認められない

②どんなことにも意味がある論

 これは部活などの体育会系で見られる玉拾いだけでなく,会社に入った新人がやられるコピー取り(これちはテクノロジーの進化で衰退中ですが)や,お茶くみなどでも言われることがですが,『一見,雑用や無駄に見えることでも意味がある,得ることはある,学ぶことはある』という考えです。 

 しかし,この議論にはいくつか間違っている点があります。

 1つは、『雑用をやること』の比較対象が『何もやらない』になってしまっているということです。『何もやらない』が対象であれば,どんなことでも無理やりポジティブな点を見つけることで正当化できてしまいます。比較すべきは,スポーツであれば他の科学的なトレーニング,コピー取りやお茶くみであれば科学的にプログラムされた新人の教育プログラム,であるべきです。

 2つ目ですが,仮に,百歩譲って球拾いやうさぎ跳び,コピーとりに教育的な価値があったとします。しかし,それを部活の新入生,会社に新人に,それ『のみ』をやらせることに教育的な価値はあるのでしょうか。雑用ばかりをやらせることが最適な教育方法でないのは,言うまでないです。

ポイント

子供の論理「どんなことにでも意味がある!」論による正当化

③そのシステムで上手くやった人間が責任者になる

 これは体育会系だけでなく,日本の伝統を引き継ぐ気質に起因したあらゆる旧態依然としたシステムの全てに言えることだとは思います。

giron.hateblo.jp

 

 理不尽なシステムに否定的な人は,ばかばかしくてすぐにドロップアウトします。つまり,その組織から逃げたり辞めたりします。また,仮にそこに残った場合でも,その指導者と価値観を共有していないので,反対派はその中で評価されたり昇進して偉くなることはありません。

 一方,その理不尽のシステムに肯定的な人は,耐えることができます。また,そのような人は,その理不尽のシステムな指導者,先輩、上司と同じ価値観を共有いるので評価が高く,肯定派は理不尽なシステムを継承する次世代の指導者,先輩、上司となりがちです。

 つまり,パワハラから生まれる子もパワハラということです。

 ここで,理不尽なシステムを続けているものはなにか?というと,もちろん指導者側に責任はあるですが,指導される側にパワハラに肯定的なもの,安易に従ってしまうものがいて,それが次世代のパワハラ指導者を生んでいる,ということだと思ってます。

ポイント

パワハラシステムに順応した(できる)パワハラ肯定派が幹部になることによる負の連鎖

④自分だけ損するのが面白くないから後輩にぶつける

 一番薄っぺらい理由ですが,単純に『自分だけがやられる,しごかれたのでは面白くないから,誰かにぶつける』という,どうしようもない理由です。

 こういった類の人は,自分自身が新入生でしごきの被害者であったときも,「いずれ自分の後輩を同じようにいびってやる」と待ち望んでいたような人たちでしょう。こういった人たちが間違って指導者になろうものなら,パワハラコーチに育つ可能性が高いです。

 このような人が生まれる可能性は低いですが,運動部なり部活なりと体育会系の母集団はまだまだ大きいので,一定確率でこのような人物が生まれてしまうことは避けられないと思います。

ポイント

自分は”しごかれた”,だから自分が先輩になったら”しごいて当然!”と思考してしまう

 

3.運動部のパワハラ事件と悪習を止める方法

 こうして見た時に大学の運動部で頻発してる暴力,パワハラ事件はどのように考えることができるでしょうか?

 事件はいろいろありますが,基本的には以下のようです。

 体育会系の指導者が,生徒のパワハラをする,あるいはラフプレー強要する。一旦生徒が罰せられそうになるが,とかげのしっぽ切りのようにいわれ,結局悪の元凶とされた大学の幹部の厳罰が下り,ことは収束していきます。

 しかし,自分は逆だと思っています。指導者側の責任は当然あるとして,先に述べたように,悪い文化を引き継ぐ,将来のパワハラ指導者になっていくであろう学生にも大いに責任があると思います。

 

ポイント

パワハラの悪習に抵抗して従わない学生もいる中,安易に従った学生の責任はある

 

 同じパワハラ指導を受けた場合でも,その指導者と戦うこと,あるいは逃げ出すこと,はできたはずです。実際そうった勇気のある人たちもいるはずです。

 しかし,問題の学生はこれらをせず,パワハラ指導者にいうことをそのまま聞いて暴力を働いた訳です。また,安易にパワハラ指導者に言うことを聞くということは,人にそのように強いる可能性が高い場合が多いです。そして次世代のパワハラ指導者になる可能性もあります。

 このようなことから,パワハラを指示した指導者側だけでなく,少しかわいそうですが,パワハラ予備軍の学生側にもある程度の責任を負わせないと,状況は改善しないのではないかと思っています。

4.まとめ

  今回は体育会系でいまだに残る,パワハラ・根性論・玉拾いなどの悪習について,それらが無くならない理由について考えてみました。また,最近問題になっている,高校,大学でのパワハラ事件と絡めて,これらの負の連鎖を止める方法について少し考えてみました。

 記事は以上になります。最後まで読んで頂きありがとうございました。